1.はじめに

今日の人間社会は様々な技術の発展に伴いますます複雑化、グローバル化しており、企業においても行政においても先を見すえて戦略的にかつ迅速に行動することの必要性がこれまで以上に増している。このような状況下で重要な事柄は、経済をはじめとする人間社会の様々な現象に対して、そのメカニズムを正しく理解して行動することである。人間社会に関わる代表的学問の一つである経済学においても、18世紀後半以降様々な経済理論が提唱され、経済諸現象のメカニズム解明に向けた努力が行われてきたといえる。

しかし社会システムにおいては自然システムと異なり、「真理は時空を超えて唯一」の原則がなりたたないために、原理的にコントロールされた実験は困難である。そのため様々な経済理論は実験的にその是非が殆ど検証されることなく今日に至っている。結果として様々なマクロ経済政策の是非についても時代と共に考え方が変化してきており、実システムでの経済政策が一種の社会実験となっている傾向にあるといえるのではなかろうか。

データに基づくメカニズム解明の手法の一つとして計量経済モデルやDSGEモデルがある。しかしいずれもマクロ変数間の関係やメカニズムに関して何らかの仮定がおかれるのが通常であり、複雑な実システム現象のメカニズム解明には限界がある1)

これに対し、近年実システムにおけるマクロ現象創発の基本原理に基づきボトムアップに社会経済システムをモデル化する、エージェントベースモデリングなる手法が考案され、様々なマクロ現象への適用研究が世界的に進められている。

本稿ではエージェントベースモデリングのマクロ経済システムへの適用事例を紹介し、今後の課題を展望する。

1)J. Doyne Farmer,et.al.:nature,460(6),(2009),pp.685-686

2.エージェントベースモデリングとは

エージェントベースモデリング(以下ABMと略す)とは、実システムを構成する各意思決定主体の行動ルールをモデル化して、コンピュータ上に人工社会を構成し、各意思決定主体の自律的な行動とその相互作用の結果から、どのようなマクロ現象が創発するかを観察することを通じて、複雑なマクロ現象創発に関する様々な知見を得ようとするコンピュータシミュレーション手法である。

人間社会におけるあらゆるマクロ現象は、社会を構成する意思決定主体の行動とその相互作用の結果である。GDPや物価上昇率、失業率といったマクロ経済に関わる指標についてもその決定原理は上記に帰せられる。ここで留意すべき重要な点は、マクロなシステム状態の変化は個々の意思決定主体の多様性に依存すること、また個々の意思決定主体の行動自体がマクロな状態に依存する、という点である。後者は「ミクロマクロリンク」と呼ばれており、この特徴を有するシステムは、その状態が自己増殖的に変化する。

ABMの歴史はジョン・フォン・ノイマンの「自己増殖オートマトン」の理論に遡り、2016年はこの理論が刊行されて丁度50周年にあたる。この理論に基づき考案されたセルオートマトンがエージェントベースモデリングのルーツとされている。その最も初期のモデルの一つはトーマスシェリングの住み分けモデル(1971年)である。そこでは自律的な意思決定主体を表すエージェントが自身の意思決定ルールに基づき空間を動き回り互いに相互作用することにより、エージェントのわずかな嗜好の差が自己増殖的なシステム状態変化を経て、マクロ的な「住み分け」を引き起こすことが示されている。

ABMは多様な意思決定主体の行動ルールのみを仮定して、実システムと類似の原理で動作する人工社会をコンピュータ上に構築することを特徴とするボトムアップなモデリング手法であり、ミクロマクロリンクを含む複雑系システムの解析に適した手法であるとされている。

3.  ABMの妥当性の条件

ABMに対する根強い批判として、ヤッコー批判というものがある。「ABMの計算結果はインプット条件に鈍感であり、そのため仮定次第でいかような結果も得られ、やったらこうなる、ということ以上の意味のある知見はもたらされない」という批判である。しかしながらこの批判は認識の誤りであり、その原因はABMの入力条件をパラメータ値ととらえた点にあると思われる。ABMの入力条件は、システム構造(システム構成オブジェクトの種類及び意思決定主体の行動ルール)及び、システム構成オブジェクトの属性に分けられる。

著者らの近年のマクロ経済に関わるABMの研究結果によれば、ABMで再現されるマクロ現象は、モデルのシステム構造に敏感であり、ABMにおいて実現象を再現するために必要不可欠なシステム構造が存在する。ABMにおけるモデルはできるだけシンプルであるべき(KISS原理と呼ばれている)であるが、必要不可欠とされる最低限の要因はすべて考慮されていなければ、例え定性的レベルであっても着目するマクロ現象をモデルで再現することはできない。

このように、マクロ現象再現に必要不可欠なシステム条件が存在することは、その理由をモデル上で検討することによって実システムのマクロ現象創発のメカニズムに関して少なくとも定性的な知見が得られることを示している。必要不可欠な条件の詳細はまだ研究途上であるが、今後属性についても同様の検討をすることにより、定量的レベルにおいても有効なモデルの開発も可能と考えている。

以上より、ABMは現時点では未だ十分な市民権を得ていないアプローチであるが、将来は社会現象のメカニズム解明にとどまらず、社会経済問題解決のための方策を検討するツールとなりうるポテンシャルを持っていると考える。今後より多くの研究者がABM研究に参入され、社会問題解決に向けて学術サイドから寄与されることが期待される。

4.マクロ現象再現に必要不可欠なシステム構造とメカニズムに関する研究事例

著者らはこれまでに、価格の均衡、景気循環、所得税及び法人税の減税効果、等について解析を行い、これらのマクロ現象を再現するために必要不可欠なシステム構造を明らかにしてきた。以下にマクロ現象再現のための必要不可欠なシステム構造とそれによるマクロ現象創発メカニズム解明に関わる著者らの研究事例を紹介する。

4.1 所得税減税効果のメカニズム

モデルシステムに、消費者、生産者、銀行及び政府が含まれることに加えて、①政府支出の非効率性の存在、

が必要不可欠である。これは政府より消費者の方が支出の効率度が大の時に減税効果が現れることを意味する。

4.2 法人税減税効果のメカニズム

上記①に加えて、②経営者報酬の存在、③企業の設備投資に際しての資金調達手段の中に自己資金の活用が含まれること、④銀行借入に関わる上限の緩和(銀行借入条件が厳しすぎないこと)、が必要不可欠である。その理由は、これらの条件が、減税による利益剰余金の増加が、企業の貯蓄増加となることなく従業員や経営者の所得増加や設備投資の増加を通じて市場を循環する資金の増加をもたらす、ために必須な条件であるからである。

なお、法人減税は失業率低下をもたらすことが知られているが、労働市場の存在は必要不可欠な条件ではない。景気判断において雇用統計は重要な指標ではあり、一方景気対策として法人税減税はしばしば用いられる一般的な対策である。しかし両者に直接的な因果関係はないことが上述の結果から言えるのである。何故そのようになるかの詳細は割愛するが、簡単に言えば、企業が雇用を増やすかどうかを決定するのは需要であり、需要を決定するのは消費者所得であるのに対し、法人税減税効果を左右するのは企業が減税によって増加した利益剰余金をどのように使うかに依存し、その使途の内訳の中で大きな要因を占めているのは投資であり、投資にどの程度使うかを左右するのは需要である、という因果関係による。これらの因果関係の中で労働分配率は法人税減税効果の主要な要因ではない、ということである。

4.3 景気循環のメカニズム

景気循環をモデルにおいて再現するための必要不可欠な条件は、消費者、商品及び設備の生産者、銀行の存在に加えて、①生産者の需要予測による投資判断②銀行借入による資金調達③信用創造の上限の存在④投資・借入時期のある程度の同期性である。

景気循環メカニズムに関してこれまでに多くの経済学者が説を唱えているが、上記要因が景気循環再現に必要不可欠であることから、景気循環メカニズムの基本は信用創造及び企業の多様性に起因する自己増殖的なシステム状態変化にあるといえる。簡単に言えば所得増・需要増・投資増の自己増殖的な好循環により景気拡大・借入超過がもたらされる。その後、信用創造の限界により返済超過となり、所得減・需要減・投資減の自己増殖的悪循環により景気後退・返済超過がもたらされ、これが繰り返されて、景気循環が起こると考えている。

4.4 その他

以上の他、種々のマクロ経済現象再現のための必要不可欠なシステム構造解明を通じて、消費者物価上昇率、公共投資乗数、貧富の差等のメカニズムについても種々の知見が得られている。

上述の記述の中には経済学者から見ればいささか乱暴と思われる記述もあるかもしれないし、今後の研究課題も多く残されていると思われる。しかし重要な点は、統計的な手法で上述のような因果関係に関する知見を得るのは原理的に限界があると思われるのに対し、ABMは原理的にそのような因果関係やメカニズムを明らかにすることのできるポテンシャルを持ったアプローチであるという点である。

5.まとめ

ABMは社会システムにおける種々のマクロ挙動をコンピュータ上に再現することが可能な新しいアプローチ手法であり、コンピュータ上で種々の要因を系統的に変更するコントロールされた実験を行うことにより、社会経済システムのマクロ挙動メカニズムを実験的に解明することを可能とするポテンシャルを持った科学的アプローチである。我が国ではこれまで社会や金融市場のモデルに関する研究が中心でありマクロ経済に関わるモデル開発の取り組みは欧米に比べ少ないのが現状である。その理由の一つは、多様なオブジェクト間相互作用に加え、複式簿記による仕訳や毎期の決算処理が必要となる等、モデル構築には高いプログラミングスキルや会計上の専門性が必要であるが、予算制約でこれらを分業体制で行うことが難しい点にあるように思われる。

今後より多くの人材がABM研究に参入され、そのことが社会の諸問題解決につながることを期待している。