- 1. 1. はじめに
- 2. 2. エージェントベースモデリングとは
- 3. 3. ABMの妥当性の条件
- 4. 4. マクロ現象再現に必要不可欠なモデル構造とメカニズムに関する研究事例
- 4.1. 4. 1 経済基本現象再現に必要不可欠なモデル構造とメカニズム
- 4.1.1. 4. 1. 1 価格均衡に必要なモデル構造とメカニズム
- 4.1.2. 4. 1. 2 貨幣の循環再現に必要不可欠なモデル構造とメカニズム
- 4.1.3. 4. 1. 3 サプライチェーンにおける下工程生産者の生産可能量の下工程生産者の生産能力依存性
- 4.1.4. 4. 1. 4 所得税減税によるGDP増加の再現に必要不可欠なモデル構造及びメカニズム
- 4.1.5. 4. 1. 5 法人税減税によるGDP増加の再現に必要不可欠なモデル構造とメカニズム
- 4.1.6. 4. 1. 6 景気循環の再現に必要不可欠なモデル構造及びメカニズム
- 4.1.7. 4. 1. 7 その他の研究事例
- 4.2. 4. 2 一般社会現象の再現に必要不可欠なモデル構造に関する研究事例
- 4.2.1. 4. 2. 1 いじめ現象の再現に必要不可欠なモデル構造とメカニズム
- 4.2.2. 4. 2. 2 パンデミックの再現に必要不可欠なモデル構造
- 5. 5. ABM研究の現状と課題
- 6. 6. まとめ
1. はじめに
今日の人間社会は様々な技術の発展に伴いますます複雑化、グローバル化しており、企業においても行政においても先を見すえて戦略的にかつ迅速に行動することの必要性がこれまで以上に増している。このような状況下で重要な事柄は、経済をはじめとする人間社会の様々な現象に対して、その因果メカニズムを正しく理解して行動することである。人間社会に関わる代表的学問の一つである経済学においても、18世紀後半以降様々な経済理論が提唱され、経済諸現象のメカニズム解明に向けた努力が行われてきたといえる。
しかし社会システムにおいては自然システムと異なり、「真理は時空を超えて唯一」の原則がなりたたないために、現象が大規模システム内の現象であればあるほど原理的にコントロールされた実験は困難である。そのため様々な経済理論は実験的にその是非が殆ど検証されることなく今日に至っている。結果として様々なマクロ経済政策の是非についても時代と共に考え方が変化してきており、実システムでの経済政策が一種の社会実験となっている傾向にあるといえるのではなかろうか。
データに基づくメカニズム解明の手法の一つとして計量経済モデルやDSGEモデルがある。しかしいずれもマクロ変数間の関係やメカニズムに関して何らかの仮定がおかれるのが通常であり、複雑な実システム現象のメカニズム解明には限界がある1)。この問題は経済のみならず一般的な社会現象についても同様であり、社会科学においてサイエンスとは何かということは古くからの命題であった。その結果、社会経済の諸問題における因果メカニズム理解はアブダクションによる推論により行われているといってよいと思われる。また推論の結果が個人によって複数提唱されている場合には、多数決の原理によって諸政策が決定されているのが実態と思われる。
これに対し、近年実システムにおけるマクロ現象創発の基本原理に基づきボトムアップに社会経済システムをモデル化する、エージェントベースモデリングなる手法が考案され、様々なマクロ現象への適用研究が世界的に進められている。しかしながら、直近2024-2025年の論文においても、エージェントベースモデリングの最も大きい課題はその妥当性(validation)とされており、現実の社会現象の問題解決にエージェントベースが用いられている例は殆どないと思われる。著者らは2012年以降、この問題を解決し、妥当なモデル構築の方法論及びそれに基づくメカニズム理解の方法を提唱している。
本稿では社会経済現象へのエージェントベースモデリング適用の研究の現状、著者らによるマクロ経済システム及びその他の社会システムへ適用研究事例を紹介し、今後の課題を展望する。
1) J. Doyne Farmer,et.al.:nature,460(6),(2009),pp.685-686
2. エージェントベースモデリングとは
エージェントベースモデリング(以下ABMと略す)とは、実システムを構成する各意思決定主体の行動ルールをモデル化して、コンピュータ上に人工社会を構成し、各意思決定主体の自律的な行動とその相互作用の結果から、ボトムアップにどのようなマクロ現象が創発するかを観察することを通じて、複雑なマクロ現象創発に関する様々な知見を得ようとするコンピュータシミュレーション手法である。
この際、仮定するのは個々のエージェントの種類と各種エージェントの行動ルール及び行動ルールに含まれる変数、即ち個々のエージェントに関わるものである。行動ルールに含まれる変数はエージェントの属性変数及びシステムの状態変数が含まれるが、インプット条件は行動ルール及び属性変数である。これらを著者らは「モデル構造」と呼んでいる。一方、マクロ的な状態変数間の関係や分布等、本来計算結果として得られるべき種類の変数に関する仮定は一切おかない。これ故、ABMはボトムアップなモデリング手法と呼ばれている。ABMのもう一つの特徴は多様性の導入である。各エージェントは多様な意思決定主体であり、そのことはエージェントの属性の初期値を乱数で与えることにより容易にモデルに導入できる。この際、乱数の初期値は定量的な計算結果に影響するが、定性的な計算結果、即ち現象の定性的再現には影響しない。
人間社会におけるあらゆるマクロ現象は、社会を構成する意思決定主体の行動とその相互作用の結果である。GDPや物価上昇率、失業率といったマクロ経済に関わる指標についてもその決定原理は上記に帰せられる。ここで留意すべき重要な点は、マクロなシステム状態の変化は個々の意思決定主体の多様性に依存すること、また個々の意思決定主体の行動自体がマクロな状態に依存する(一般に行動ルールにシステムの状態変数が含まれる)、という点である。後者は「ミクロマクロリンク」と呼ばれており、この特徴を有するシステムは、その状態が自己増殖的に変化する。
ABMの歴史はジョン・フォン・ノイマンの「自己増殖オートマトン」の理論に遡り、2016年はこの理論が刊行されて丁度50周年にあたる。この理論に基づき考案されたセルオートマトンがエージェントベースモデリングのルーツとされている。この手法は当初は自然システム系で主に利用され工学分野では多くの研究事例がある。社会システム系への適用の最も初期のモデルの一つはトーマスシェリングの住み分けモデル(1971年)である。そこでは自律的な意思決定主体を表すエージェントが自身の意思決定ルールに基づき空間を動き回り互いに相互作用することにより、エージェントのわずかな嗜好の差が自己増殖的なシステム状態変化を経て、マクロ的な「住み分け」を引き起こすことが示されている。
ABMは多様な意思決定主体の行動ルールのみを仮定して、実システムと類似の原理で動作する人工社会をコンピュータ上に構築することを特徴とするボトムアップなモデリング手法であり、ミクロマクロリンクを含む複雑系システムの解析に適した手法であるとされている。
ちなみに、ABMと対極をなす従来型のモデリングの代表格は、方程式ベースのモデリングである。その代表例は自然システム系では2楷の微分方程式であり、社会システム系ではシステムダイナミックスモデル(通常1階の微分方程式モデル)である。そこでは着目するマクロ現象に関わるメカニズムを仮定して、マクロ変数の時間的変化を解析する。しかし、マクロ現象はミクロ的かつ多様な個々の意思決定主体の行動の結果であるにも関わらず、ミクロレベルの多様性や相互作用は無視される。
自然システムの場合には自然を構成する物質は多くの場合一様であり、かつ相互作用の影響は小さいので、方程式ベースのモデルによって普遍的なモデル構築が可能である。また真実は時空を超えて真の原則が成り立つので、現象の再現性は時空を超えて担保される。その結果コントロールされた実験が可能であり、仮定して方程式ベースのモデルの妥当性は世界的な研究者による一連の系統的な実験によって確実に検証される。現在知られている科学的な知見は全て理論と実験によって正しさが確認された知識の集合である。
一方、社会システムの場合、現象創発の原因は多様な人間の行動とその相互作用の結果であるため、方程式ベースで記述することには限界がある。また、人間の行動は場所と時代によって変化する、すなわち真実は時空を超えて真の原則は成り立たない。そのため問題とする現象がマクロ的であればあるほどコントロールされた実験は一般に困難であるので、計算結果が実現象と一致しているかどうかの検証は一般に困難である。
なお、ABMではモデルがボトムアップなため多様性の導入が容易でありかつ相互作用の大きい系の現象を記述するにも問題はない。また著者らが主張するメカニズム指向ABM(後述)ではモデルの妥当性は系統的なコンピュータ実験で必要不可欠なモデル構造を特定することにより検証される。
3. ABMの妥当性の条件
ABMに対する根強い批判として、ヤッコー批判というものがある。「ABMの計算結果はインプット条件に鈍感であり、そのため仮定次第でいかような結果も得られ、やったらこうなる、ということ以上の意味のある知見はもたらされない」という批判である。しかしながらこの批判は認識の誤りであり、その原因はABMの入力条件をパラメータ値ととらえた点にあると思われる。ABMの汎用ソフトツールが二次元の画面に計算結果を表示する形式であるために、無意識の内に定性的な現象の再現と定量的な現象の再現が混同された可能性も否定できない。ABMの入力条件は、モデル構造(モデルに含まれる各意思決定主体の行動ルール及び行動ルールに含まれる変数)及び、変数の値に分けられる。またモデルは現象の定性的特徴を再現する定性モデルと、定性のみならず定量的な値も再現する定量モデルに分類できる。そして、当然のことではあるが、定性モデルにおいてモデルの計算結果が実現象の定性的特徴を再現できるかどうかはモデル構造に大きく依存する。
このことは著者らのこれまでの全ての研究事例で確認されており、ABMで再現されるべきマクロ現象の定性的特徴は、モデル構造に敏感であり、ABMにおいて実現象の特徴を定性的に再現するために必要不可欠な(即ち必要かつ十分な)モデル構造が存在する。ABMにおけるモデルはできるだけシンプルであるべき(KISS原理と呼ばれている)であるが、必要不可欠とされる最低限の要因はすべて考慮されていなければ、例え定性的レベルであっても着目するマクロ現象をモデルで再現することはできない。
このように、マクロ現象再現に必要不可欠なシステム条件が存在することは、その理由をモデル上で検討することによって実システムのマクロ現象創発のメカニズムに関して少なくとも定性的な知見が得られることを示している。
以上より、著者らた提唱している妥当もABMモデル構築の方法は以下の通りである。
1)定性モデル構築と因果メカニズム理解の手順
① 着目する現象の定性的特徴を定義する。
② 当該マクロ現象の成因を推論し、推論に基づきモデル構造を仮定し、モデルを構築する。すなわち、その現象の成因に関わっていると思われる意思決定主体(エージェント)の種類、各種意思決定主体の行動ルール、行動ルールに含まれる変数(変数は属性変数とシステム状態変数で構成される)、を仮定し、仮定に基づいプログラムコードを作成し、実行可能なABMプログラムを構築する。
③ モデルに基づきシミュレーション計算を実行し、着目する特徴が再現出来なければステップ②に戻る、再現できればステップ④に進む。②、③のitereationを系統的に繰り返すことによって着目する特徴を再現するために必要不可欠なモデル構造を特定することができる。
④ 特定したモデル構造が何故必要不可欠であるかを考察することにより、人工社会における因果メカニズムを特定できる。人工社会では理解に必要なすべてのデータが入手可能であるので、因果メカニズムは必ず特定可能である。モデルの構造が実システムの構造と同じと判断できる場合には、特定した因果メカニズムが実現象の因果メカニズムである。
⑤ モデルの構造が実システムの構造と異なる場合には、人工社会における因果メカニズムを実システムに置き換えることにより実システムにおける因果メカニズムが理解できる。
2)定量モデル構築の手順
当該現象の特徴を定性的に再現するために必要不可欠なモデル構造をもつモデルにおいて、パラメータを系統的に変化させることにより、実現象を定量的に再現きでるパラメータ条件を特定する。この時計算結果を一般化するためには、関係する変数を代表変数で除して、無次元変数もしくは相対変数に変換する。実現象におけるモデルと比較すべき変数も無次元変数もしくは相対変数で表すことが有効と考えられる。
以上より、ABMは現時点では未だ十分な市民権を得ていないアプローチであるが、将来は社会現象のメカニズム解明にとどまらず、社会経済問題解決のための方策を検討するツールとなりうるポテンシャルを持っていると考える。今後より多くの研究者がABM研究に参入され、社会問題解決に向けて学術サイドから寄与されることが期待される。
4. マクロ現象再現に必要不可欠なモデル構造とメカニズムに関する研究事例
4. 1 経済基本現象再現に必要不可欠なモデル構造とメカニズム
著者らはこれまでに、価格の均衡、景気循環、所得税及び法人税の減税効果、等について解析を行い、これらのマクロ現象を再現するために必要不可欠なモデル構造(実システムではシステム構造)を明らかにしてきた。以下にマクロ現象再現のための必要不可欠なモデル構造とそれによるマクロ現象創発メカニズム解明に関わる著者らの研究事例を紹介する。
4. 1. 1 価格均衡に必要なモデル構造とメカニズム
① 消費者の可処分所得の範囲内での効用最大化及び低価格指向の購買行動。同じ商品が市場に異なる価格で提供されていれば低価格の商品を購入する。
② 生産者の在庫管理指向の生産量及び価格設定の生産行動
この行動原理により、価格及び生産量は需要と供給のバランスの原理により、初期値に関わらず一定値に収斂する。
4. 1. 2 貨幣の循環再現に必要不可欠なモデル構造とメカニズム
輸出を考慮しない内需型経済システムにおいて、消費者の購買行動によって種々の生産者が利益を計上して市中を貨幣が循環するための必要不可欠な条件は下記の2条件である。
① 消費者は、生産者に雇用される給与所得者及び経営者(個人事業主を含む)で構成される。
② 生産者は、経営者報酬を経費とする会社組織と経営者報酬を経費としない個人事業主で構成される。
メカニズム:内需型経済システムにおいて、会社の勤労所得者の給与は売上より小さいので、個人事業主の存在がなけれが会社が利益を上げられないことは自明である。
4. 1. 3 サプライチェーンにおける下工程生産者の生産可能量の下工程生産者の生産能力依存性
下工程生産者とは消費者用の商品を生産するか消費者により近い商品を生産する生産者、下工程生産者とは上記に原料等の経営資源を提供する生産者である。下工程生産者の生産能力は神工程生産者の生産者能力に依存する。
この現象は4.1.1の価格の均衡の条件を備えた循環型経済システムにおいて自動的に満足される。
4. 1. 4 所得税減税によるGDP増加の再現に必要不可欠なモデル構造及びメカニズム
モデルシステムに、消費者、生産者、及び政府が含まれることに加えて、①政府支出の非効率性の存在、が必要不可欠である。非効率性とは全支出の内の市場を循環しない支出の割合である。消費者の場合は貯蓄率が非効率性に相当する。政府の場合には企業への無目的な補助金の割合が非効率性に相当する。所得税減税がGDPを増加させることは、同じ額の資金であれば消費者が消費した方が支出の効率度が大であり、市中を循環する貨幣の量が増加することを意味する。
このことは又、GDPは市中を循環する貨幣の量で決まることを意味する。理由は、市中循環貨幣の増加は生産者の売上増加と消費者の消費増加を伴い、その過程で市場の競争原理により、生み出される付加価値が増大するためである。
4. 1. 5 法人税減税によるGDP増加の再現に必要不可欠なモデル構造とメカニズム
上記①政府支出の非効率性の存在に加えて、②経営者報酬の存在、③企業の設備投資に際しての資金調達手段の中に自己資金の活用が含まれること、④銀行借入に関わる上限の緩和(銀行借入条件が厳しすぎないこと)、が必要不可欠である。その理由は、これらの条件が、減税による利益剰余金の増加が、企業の貯蓄増加となることなく従業員や経営者の所得増加や設備投資の増加を通じて市場を循環する資金の増加をもたらす、ために必須な条件であるからである。
なお、法人減税は失業率低下をもたらすことが知られているが、労働市場の存在は必要不可欠な条件ではない。景気判断において雇用統計は重要な指標ではあり、一方景気対策として法人税減税はしばしば用いられる一般的な対策である。しかし両者に直接的な因果関係はないことが上述の結果から言えるのである。何故そのようになるかの詳細は割愛するが、簡単に言えば、企業が雇用を増やすかどうかを決定するのは需要であり、需要を決定するのは消費者所得であるのに対し、法人税減税効果を左右するのは企業が減税によって増加した利益剰余金をどのように使うかに依存し、その使途の内訳の中で大きな要因を占めているのは投資であり、投資にどの程度使うかを左右するのは需要である、という因果関係による。これらの因果関係の中で労働分配率は法人税減税効果の主要な要因ではない、ということである。
4. 1. 6 景気循環の再現に必要不可欠なモデル構造及びメカニズム
景気循環をモデルにおいて再現するための必要不可欠な条件は、消費者、商品及び設備の生産者、銀行の存在に加えて、①生産者の需要予測による投資判断②銀行借入による資金調達③信用創造の上限の存在④投資・借入時期のある程度の同期性である。
景気循環メカニズムに関してこれまでに多くの経済学者が説を唱えているが、上記要因が景気循環再現に必要不可欠であることから、景気循環メカニズムの基本は信用創造及び企業の多様性に起因する自己増殖的なシステム状態変化にあるといえる。簡単に言えば所得増・需要増・投資増の自己増殖的な好循環により景気拡大・借入超過がもたらされる。その後、信用創造の限界により返済超過となり、所得減・需要減・投資減の自己増殖的悪循環により景気後退・返済超過がもたらされ、これが繰り返されて、景気循環が起こると考えている。
4. 1. 7 その他の研究事例
ABMでは着目する現象の再現に必要不可欠なモデル構造が明らかとなれば、そのモデル構造を用いて、種々の現象の因果メカニズムや政策効果について知知見を得ることが可能となる。そのような研究事例を下記に示す。
① 消費者物価上昇率
消費者物価上昇率はGDP上昇率に比例する。これはIMFによる統計データでも示されている世界的傾向であり、景気循環のメカニズムと関係している。即ち、企業の投資に伴い銀行借入が増加、市中を循環する貨幣の量は増加しGDPも消費者物価も上昇する。企業の銀行借り入れより借入金返済の金額が大けれは、市中を循環する貨幣の量は低下し、GDPも消費者物価も低下する。
同様に、政府が民間に貨幣を供給しそれが市中循環貨幣の増加をもたらせばGDPも消費者物価も上昇する。
但し、政府が民間に貨幣を供給しても、その多くが貯蓄されて市中循環貨幣の増加をもたらさなければ、GDPも消費者物価も上昇しない。
以上は内需にともなう物価上昇のメカニズムであるが、輸出入や為替レートの変化があれば、それらも物価上昇に影響する。
即ち、インフレには内需経済成長に伴うインフレと外的要因によるインフレがある。金利水準の調整は企業の投資を通じて主として内需経済成長に伴うインフレ対策として有効であるが、輸出入や為替レート変化に伴うインフレには金利以外の要因の影響を検討することが必要である。
② 公共投資乗数に及ぼす政府支出非効率度の影響
一般に公共投資は景気刺激の呼び水とされ、公共投資の金額以上にGDPが増加する(公共投資乗数>1)が期待される。しかし、これは公共投資が企業の投資を促進し銀行借入を促進する場合に限る。
著者らは、基本経済現象について妥当性が確認されたモデルを用いて、政府支出を、消費者と同じ原理でで市場から物を購入する支出(市場購買)と企業に対して制限なしに補助金を配布する支出(補助金支出)で構成し、トータル支出に対する補助金支出の割合を「政府支出の費k非効率度」と定義して、その値を種々変更してGDP及び公共投資乗数に及ぼす影響を解析した結果、非効率度が高いほど公共投資乗数は低下することを確認した。一方、政府から民間に移転した金額が全て企業の投資に使われるならば、非効率度の影響はなくなる。
即ち、非効率度大ほど公共投資乗数が低下する理由は、企業の補助金として配布した金額が、その使途を制限しない無目的なバラマキである場合には、民間に移転された金額のある割合が貯蓄となって市中を循環しないためであることが分かった。
このことから明らかなように、公共投資の金額が主として企業や家計の貯蓄額の増加となれば、GDP増加の効果はない。このことは日本経済の長期経済停滞の原因と深くかかわっていると認識すべきであろう。
③ GDPに及ぼす所得税累進課税の影響
所得税課税の累進度を大きくすると、ジニ係数は低下(貧富の差は縮小)し、GDPは増加する。その理由は、高額所得者の収入に占める生活費の割合は小さいのに対し、低所得者の収入の多くは生活費として市場購買をもたらす(支出の効率性を大とする)ため、高額所得者を増税し、定額所得者を減税することは、市中循環貨幣を増加させるためである。
日本の高度成長時代には国民一億総中流といわれ、貧富の差が小さかったが、このことは当時の所得税最高税率が75%と累進度が極めて大きかったことの結果であるとほぼ断言できる。
上述の記述の中には経済学者から見ればいささか乱暴と思われる記述もあるかもしれないし、今後の研究課題も多く残されていると思われる。しかし重要な点は、統計的な手法で上述のような因果関係に関する知見を得るのは原理的に限界があると思われるのに対し、ABMは原理的にそのような因果関係やメカニズムを明らかにすることのできるポテンシャルを持ったアプローチであるという点である。
4. 2 一般社会現象の再現に必要不可欠なモデル構造に関する研究事例
4. 2. 1 いじめ現象の再現に必要不可欠なモデル構造とメカニズム
いじめ現象の定性的特徴は、1)いじめの加害者、被害者、完全な傍観者、加害者側に近い傍観者、被害者側に近い傍観者、の合計5種類の意思決定主体(エージェント)が相互作用の結果自律的に発生すること、及び2)特定の加害者(複数人のケースあり)が特定の被害者(多くの場合一人)に対して繰り返しいじめ行為を働くこと、である。
現在までのところ、上記の内1)の特徴再現に必要不可欠なモデル構造は以下のとおりである。
① 人にはその人固有の性質として、協調性と排除性がある。
② 協調性とは自分を相手に合わせること、排除性とは相手を自分から遠ざける行為である。
③ 相手を排除する場合には、自分より相手が弱い(仲間が少ないなど)場合に限る。
メカニズム:協調性が高い人は仲間を作りやすく大きな集団の一員になりやすい。一方協調性が低い人は集団の中で孤立しやすい。協調性が高く排除性が高い人がいじめの加害者になりやすく、協調性が低く孤立エージェントとなっている人がいじめの被害者になりやすい。又協調性が高く一方排除性は低い人は傍観者になりやすい。
多くの場合いじめの加害者が複数人で被害者は個人であるのは、加害者と被害者の協調性の差の結果である。
4. 2. 2 パンデミックの再現に必要不可欠なモデル構造
パンデミックとは感染症の社会的広がりと収束の現象をいう。ABMでパンデミックを再現するためには、まずパンデミック現象の定性的特徴を定義することが肝要である。パンデミック現象の特徴は以下のようにまとめられる。
またパンデミックにおいては個人の免疫機能が大きく関係する。個人の免疫機能に関して知られている医学的知見は概略以下の通りである(医学用語として正確さを欠く部分がありましたらご容赦下さい)。
1) 免疫には自然免疫と抗体による免疫がある。自然免疫の本質は白血球による病原体の捕捉であり、抗体免疫の本質は免疫の記憶機能と特定の病原体に素早く反応する機能である。
2) 一般に人体に病原体が混入すると、自然免疫の機能によりそれを白血球で取り込み体外へ排出する機能が働く。その時点で排出が病原体の増殖速度に追い付かなければ、排出速度を早めるために体温が上昇する。文献によれば1℃の体温上昇によって免疫機能は5倍に増加することが知られている。体温上昇による免疫機能の増加は血流速度の増加による。
3) 体温上昇にも関わらず病原体の排出速度が増殖速度に追い付かずに体内の病原体数が増加する状態が一定期間続くと抗体が発生し、事実上の病原体排出速度が増加する。
以上についてコンピュータ実験により検証した結果、パンデミックの定性的特徴を再現するために必要不可欠な要因は以下のとおりである。
① 発熱による免疫力の向上機能の存在
② 重症感染者のシステム外への隔離
なお、抗体の発生はパンデミック収束のための限界増殖率を増加させるが、パンデミックの定性的特徴を再現するための必要不可欠な要因ではない。
5. ABM研究の現状と課題
欧米では経済学者を中心にABM研究が盛んに行われている。しかし欧米では近年の文献においても、ABMは妥当性検証に大きな課題を有しており普遍的な妥当性検証の方法はないとされている。これは、これまでのABMは、アブストラクトなモデル、100%ボトムアップではないモデル(マクロな仮定を置いたモデル)、現実の社会を忠実に模擬したものではないモデル、が多かったためと思われる。上記3妥当性の条件に書いたように、モデルは現実の忠実な模型であることがまず必要であり、経済モデルでは複式簿記会計によるGDP計算機能は必須であるが、文献を見る限り、著者らの論文を除いてそのような経済モデルは殆ど見られない。また、モデルを構築して、どのような現象が再現できたという論文が多く、モデルに含まれる行動ルールや属性変数に関して、現象再現に必要不可欠な要因を計算機実験によって明らかにした論文も殆ど見られない。
一方国内ではABM研究は2010年頃までに比べれば盛んではなく、精力的に研究を続けているのは著者らのグループのみではないかと思われる。
著者らの研究グループでは、本稿の2.ABMとは 及び3. ABMの妥当性の妥当性の条件、で述べた方法を「メカニズム指向ABM」と呼び、数名の研究者で月数回のzoom研究を行っている。
また、2023年度より、日本シミュレーション&ゲーミング学会(JASAG)において、「メカニズム指向ABMシミュレーション研究部会」を立ち上げ、上記のzoom研究会に加えて、JASGの春季及び秋季全国研究大会で活動内容や新しい知見の発表を行っている。
著者らの研究グループではオブジェクト指向プログラミングによる汎用的プログラム開発、及び現象毎の必要不可欠なモデル構造の解明、国内外での発表を行っている。現在までに基本経済現象についてはその再現のために必要不可欠なモデル構造を明らかにしてきた。今後はより広範囲の社会現象の再現のためのモデル構造解明、及び経済現象については、金融市場及び輸出入、為替レート変化を再現できるモデル開発を進めていく予定である。
6. まとめ
ABMは社会システムにおける種々のマクロ挙動をコンピュータ上に再現することが可能な新しいアプローチ手法であり、コンピュータ上で種々の要因を系統的に変更するコントロールされた実験を行うことにより、社会経済システムのマクロ挙動メカニズムを実験的に解明することを可能とするポテンシャルを持った科学的アプローチである。
しかしながら世界的にはそのメリットを生かすことができず、ABMは妥当性検証に大きな課題を抱えていると理解されている。即ちABMは着目する現象再現の必要条件は示せても十分条件は示すことができない、とされている。その結果ABMは実際の政策検討に使えるほどに信頼性のある方法論ではない、とされている。3. ABMの妥当性の条件でも述べたように、これは定性モデルと定量モデルを混同していること、及び定性モデルにおけるインプット条件は主にモデル構造であることの認識が不足しているため等によると考えられる。
欧米において問題とされている「妥当性検証」の問題を矛盾なく解決する新しい科学的なABM方法論を、著者らは、「メカニズム指向ABM」と呼び、対象とする現象を広げる活動を進めている。この活動は種々の社会経済現象の因果メカニズムを明らかにする活動であり、その作業は新しい経済学、社会学の構築に相当する。今後この方法論を海外に認知されるべく海外発表などを進めるとともに、多くの研究者の参入を願ってやまない次第である。